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張勲氏の無窮花賞受章祝賀会に出席した長嶋茂雄氏と王貞治氏 |
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戦後日本を鼓舞した力道山 |
戦後、コリアンがスポーツ芸能で果たした役割は計り知れなく大きい。
昭和26年、力道山は大相撲からプロレスに転向した。一発入魂、全身全霊をかけた空手チョップは日本国民を魅了した。 外人を黒いタイツの力道山がバッタバッタとなぎ倒す姿に敗戦で打ちひしがれた人々に勇気と希望を与えた。 「張り手を自分なりに工夫して空手チョップを完成した。誰も頼る物のない寂しい状態を、一体どうしたらこの現実を切り抜けられるかという一心だった。武器も後ろ盾も持たぬ人間にとって、唯一の力は、いつ、誰がかかってきても伸ばしてやるという心の張りだけだった」と当時の力道山は心の支えを空手チョップに求めていた。本名金信洛で、出身は北のハンギョン南道。 1963年1月に韓国政府の招きで極秘訪問し、板門店で北に向かって「オモニ、ヒョンニン」と叫び、故郷への思いを発露していた。敗戦後、意気消沈する日本人に生きる自信を取り戻させたコリアン、力道山のパワーは今でも語り草になっている。 野球界で特筆すべきは張本勲だ。アジアで唯一3千本安打を達成し、通算本塁打は504本で首位打者も7回獲得している。安打製造機として、張本勲は傑出した選手だった。広島生まれの2世。慶尚南道出身で、アボジは幼いころに亡くなっている。 6畳一間でトタン屋根のバラックで育った。張本は、講演会ごとに「プロ野球に進んだのは、母親に、白いご飯を思いっきり食べさせたかったから」と力説していた。韓国人であることを明らかにし、何の隠し事もせずに堂々と生きてきた。
韓国でプロ野球が始まったのは1982年のことである。張本は韓国野球界との太いパイプを生かして、日本のプロ野球でプレーした在日選手を数多く韓国に送った。日韓野球界で貢献した人物である。現役では阪神の金本知憲選手も広島出身である。阪神の4番打者としての位置は不動だ。オモニは、週刊誌で「息子は在日の英雄」と漏らしていたが、そのように言われる所以はある。ある同胞は「日本のプロ野球界は、在日朝鮮人がいないと成り立たなかったのでは。古くは最初に完全試合をした巨人の藤本英雄、日本一のピッチャー金田正一など、在日には凄い選手が育っていた」と当時を誇らしげに語っていた。 現在サッカー界で新進気鋭の李忠成選手が注目を浴びている。在日4世で、日本国籍を取得し、自らのアイデンティティを大切にしながら「サッカーを通して日韓友好を果たしていきたい」と語っている。
芸能、芸術界でもコリアンの活躍ぶりには特出したものがある。本名で活躍する映画監督の李相日氏は在日3世。監督作「フラガール」は映画賞を総なめした。しかしながら、民族ルーツを明らかにせず、ひた隠しにしている人々も多いのは事実だ。
最近、3、4世の歌手の登場が目立ち始めている。伝統格式を重んじる宝塚でトップスターとなった安蘭けいの活躍には目を見張る。コリアンではトップになったのは初めてだ。ゴスペルシンガーの新井深絵、CHIJAはそれぞれ金剛学園、建国出身だ。民族学校出身の歌手にはより一層の活躍を期待したい。在日の既存団体同胞は彼女らの後援会づくりなどを含めて、CDの購入、公演鑑賞など惜しみない支援をすべきであろう。