2008年3月21日号
先人1世の苦闘史を誇りに
祖国・日本 二つの世界を支えてきた在日
                           大阪・鶴橋国際マーケットはキムチ産業の発祥地
1910年の日本の植民地統治から翌年にかけて朝鮮半島から朝鮮人が日本に移住し始めた。済州道・大阪と釜山・下関間に航路定期便が往来し始めてから、労働、親族探しなどによって増えていった。そして徴用、出稼ぎ、軍事要員などで200万人台まで膨れ上がった。終戦、解放時は祖国への帰還もあって60万人台になった。市井の同胞は南北分断とともに民団・総連の組織の下で現在に至っている。在日コリアンは負の連鎖、歴史からとかく社会的にマイナスイメージと捉えられがちだ。日本資本主義の底辺の生活の中からたくましく食文化、娯楽産業などを築き挙げ、産業発展の一角をも担うようになった。朝鮮系マイノリティとしての評価、問題点を概略的に整理しながら、今後の課題を提起するとともに、世界史の中でも特筆すべき在日コリアンの歴史的役割、課題を探っていきたい。
●初期の在日朝鮮人
 1世は朝鮮の故郷を離れ、なぜ渡日することになったのか。
 1910年から始まった植民地支配の中で日本は10年代には土地調査事業、20年代には産米増殖計画などの製作を推進した。農村では農民の階層分解が始まり、一部の朝鮮人が大土地所有者としてのし上がってきた。 一方では自作農から小作農へと転落し、先祖らの土地を失った農民が続出した。しかし、当時の工業の下では、農村からの過剰人口を吸収することは不可能だった。没落した人々は、底辺生活を余儀なくされ、自給自足の焼畑農業をしたり、国外に流出していく人々もいた。 北部の人は、鴨緑江、豆満江という国境の川を越え、中国、ソ連の地に水田を切り開いて新生活を始めた。これらの人々は中国の朝鮮族や中国の朝鮮人の原形となっている。そして、南部出身で渡航費用を持ち合わせの人々は玄界灘を渡って日本に来た。日本の資本主義にも、低賃金労働者として朝鮮人を必要とした社会事情があった。当初は単身の出稼ぎだったり、後には家族とともに、日本で働き生活する朝鮮人が生まれてくる。
 併合の翌年、1911年は統計では2527人という数字が記録されている。実際にはほとんどが留学生を中心とするものであった。少しずつだが1910年代半ば以降、第一次世界大戦の時期で、戦争による好景気で、労働力は必要であった。
 とくに、関西、大阪での企業が欲しており、業種的には紡績業や造船業が中心であった。1920年代には2万を越えるようになった。日帝の侵略によって、強制連行や徴用、あるいは従軍慰安婦としての朝鮮人も多く、戦場、炭鉱、土木工事従事するようになった。1938年の国家総動員法は天皇の命令によって戦争に必要な人的、物的資源を動員できるもので朝鮮人にも適用された。1931年には満州事変が勃発、日帝は朝鮮を大陸侵攻の兵端基地とするための重工業政策を進めた。日本への移動は増加し、31年当時は31万余の人であったのが、1938年には79万余の人に達した。第2次大戦下の1939年、日中戦争が勃発し、国民総動員計画を実施した。1942年朝鮮徴用令、1944年に徴兵令を実施、1945年には210万あまりの人という数字に達していた。例えば、1939年には全国の炭鉱労働者の内、朝鮮人は6%前後占めていた。しかし、開放からの1年後には現在とほぼ同数の60万人あまり台まで激変した。個々人、様々な理由で帰国を見合わせた人々が現在の在日の直接の原形である。 在日の存在は日本と朝鮮の不幸な植民地支配という歴史的経過から発生したものである。東西冷戦という世界史の対立から生じたことをしかと明記しておきたい。
●スポーツ、芸能界に数多く進出
張勲氏の無窮花賞受章祝賀会に出席した長嶋茂雄氏と王貞治氏    戦後日本を鼓舞した力道山
 
 戦後、コリアンがスポーツ芸能で果たした役割は計り知れなく大きい。
 昭和26年、力道山は大相撲からプロレスに転向した。一発入魂、全身全霊をかけた空手チョップは日本国民を魅了した。 外人を黒いタイツの力道山がバッタバッタとなぎ倒す姿に敗戦で打ちひしがれた人々に勇気と希望を与えた。 「張り手を自分なりに工夫して空手チョップを完成した。誰も頼る物のない寂しい状態を、一体どうしたらこの現実を切り抜けられるかという一心だった。武器も後ろ盾も持たぬ人間にとって、唯一の力は、いつ、誰がかかってきても伸ばしてやるという心の張りだけだった」と当時の力道山は心の支えを空手チョップに求めていた。本名金信洛で、出身は北のハンギョン南道。 1963年1月に韓国政府の招きで極秘訪問し、板門店で北に向かって「オモニ、ヒョンニン」と叫び、故郷への思いを発露していた。敗戦後、意気消沈する日本人に生きる自信を取り戻させたコリアン、力道山のパワーは今でも語り草になっている。 野球界で特筆すべきは張本勲だ。アジアで唯一3千本安打を達成し、通算本塁打は504本で首位打者も7回獲得している。安打製造機として、張本勲は傑出した選手だった。広島生まれの2世。慶尚南道出身で、アボジは幼いころに亡くなっている。 6畳一間でトタン屋根のバラックで育った。張本は、講演会ごとに「プロ野球に進んだのは、母親に、白いご飯を思いっきり食べさせたかったから」と力説していた。韓国人であることを明らかにし、何の隠し事もせずに堂々と生きてきた。
 韓国でプロ野球が始まったのは1982年のことである。張本は韓国野球界との太いパイプを生かして、日本のプロ野球でプレーした在日選手を数多く韓国に送った。日韓野球界で貢献した人物である。現役では阪神の金本知憲選手も広島出身である。阪神の4番打者としての位置は不動だ。オモニは、週刊誌で「息子は在日の英雄」と漏らしていたが、そのように言われる所以はある。ある同胞は「日本のプロ野球界は、在日朝鮮人がいないと成り立たなかったのでは。古くは最初に完全試合をした巨人の藤本英雄、日本一のピッチャー金田正一など、在日には凄い選手が育っていた」と当時を誇らしげに語っていた。 現在サッカー界で新進気鋭の李忠成選手が注目を浴びている。在日4世で、日本国籍を取得し、自らのアイデンティティを大切にしながら「サッカーを通して日韓友好を果たしていきたい」と語っている。
 芸能、芸術界でもコリアンの活躍ぶりには特出したものがある。本名で活躍する映画監督の李相日氏は在日3世。監督作「フラガール」は映画賞を総なめした。しかしながら、民族ルーツを明らかにせず、ひた隠しにしている人々も多いのは事実だ。
 最近、3、4世の歌手の登場が目立ち始めている。伝統格式を重んじる宝塚でトップスターとなった安蘭けいの活躍には目を見張る。コリアンではトップになったのは初めてだ。ゴスペルシンガーの新井深絵、CHIJAはそれぞれ金剛学園、建国出身だ。民族学校出身の歌手にはより一層の活躍を期待したい。在日の既存団体同胞は彼女らの後援会づくりなどを含めて、CDの購入、公演鑑賞など惜しみない支援をすべきであろう。
●サービス、製造なども貢献は大
 在日の業種で代表的なのがキムチ、焼肉、娯楽のパチンコだ。業種ではサービス業、製造業、卸売り・小売業、建設業などで占めている。そして大部分の在日コリアン企業が中小零細企業に属している。関西圏では地元の地場産業、製造業が少なからず存在している。東大阪市は、製造業の町として有名だが同胞の中小企業経営者が多く存在している。大阪グリップOGKの創設者で先代の朴景雨は慶尚南道出身。自転車の部品、ヘルメットなどのメーカーだ。
 大阪市西成区、浪速区は婦人、紳士靴のメーカー加工業が地場産業として根付いている。メーカーの組合百数十社の内約4分の1が同胞で占められている。ドンストリーム、サロンドグレーなどは2世の経営者だ。京都の代表的な地場産業の西陣織は日本の着物の代表的なものだが、製造過程で同胞企業が30社ほどある。数はわずかだが、福井県鯖江市の眼鏡産業に数社の同胞メーカーがある。石川県輪島市の輪島塗に従事している同胞が2、3人いる。製造業でトップの位置を占めている企業も取り上げたい。三進金属工業は本社が大阪府泉北郡にあり、スチール棚メーカーだ。会長の朴正凖氏は中学2年のとき渡日した。建国中学から定時制の今宮高校へ進み、大阪市西成区で小さな町工場から始めた。大阪府泉北郡へ移転してから業績が上昇した。今や年商200億、社員数800余人と業界のトップメーカーにまで成長した。創立40周年式典では、取引業者、地元の人々を招待した。故郷の忠清道から国楽団を呼び韓国芸能をいかんなく披露した。普通なら大手企業のコリア系経営者は韓国のルーツを隠すところだが、堂々と披露したのは在日の範と言っても言い過ぎではない。 広島県の安芸高田市にある八千代病院(姜仁秀理事長)はベッド数1500を抱える西日本最大の老人施設である。昨年11月にオープンしたメリィハウスの式典で出席した児玉更太郎安芸高田市長は「八千代病院の発展に町民らは喜んでいる。今後とも模範的な老人施設としての発展を期待します」と賞賛を寄せている。八千代病院の設立にあたって、当初は住民から「朝鮮人の病院は反対」と誹謗中傷もされたが、今や「素晴らしい施設」「良い環境でもてなしも最高」と好評を博している。
●知的産業に多く進出した2、3世
 東京に在日韓国科学技術者協会がある。発足して25年目になる。会員は約3700人。会長の玄光男氏は早稲田大学大学院の教授をしている。副会長の金武完氏は建国中学(20期生)天王寺高校、大阪大学工学科を卒業し、デジタル交換機ソフトを富士通で研究した。コンピューターのハードウェアがどんなに高性能になっても、それを動かすソフトウェアが充実していなければ自由自在に使いこなすことは難しい。両者が一体となって初めて優れた機能を発揮できる。
 「差別のある状態で、前途が真っ暗に見えて、途中で医者になろうかと悩んだ。幾度か挫折しそうになったが歯を食いしばって頑張った」と振り返っている。ディスプレイ材料研究の第一人者は2世の夫龍淳氏。長年務めた富士ゼロックスでは、主幹研究者としてコピー機の性能を飛躍的にアップさせた有機半導体材料開発の基礎を作った。 韓国のサムスン総合技術院で研究開発を指導、成均館大学に移り、工学の指導をしている。「私が指導していた電子材料研究所では、約6割が博士号を持ち、内約7割の人たちが米国にいる。約2割は日本で博士号を取り韓国へ戻ってきている」と語りながら、「我々が日本に生まれ育った在日であることを自然に受け入れていくべき。そして、日本人とは少し違う、よりグローバルな点から人生を考え、周囲で起こっていることの本質をより高い次元から把握できるようにしたらどうか」と在日の価値性を強調していた。科学者協会では今年の10月に日本で世界に散在している科学者が一堂に集まり記念式典が開催される予定だ。
 2002年に在日コリアン弁護士協会が発足して6年が経過した。弁護士の第1号の金敬得氏をはじめ現在約70余人の弁護士がいる。協会は最近、「裁判の中の在日コリアン」を出版した。民族、国籍差別に対して在日コリアンがどう抗ってきたかの歴史を著述している。李宇海弁護士は「人としての尊厳をどう守るかということです」と語りながら、次々と登場する若手の弁護士の育成に心血を注いでいる。医師、大学教授、弁理士、税理士、行政・司法書士、保険労務士など在日には国家資格保有者が多い。恐らく日本人より人口比例したらその比率は上回るであろう。グローバル経済の中で生き残る道は知的産業を豊かにすることだ。企業人が国際競争力に勝ち抜くためには技術力が絶対的条件である。日本も科学技術立国として技術者の育成に全力投球している。 在日の知的産業がアジア、世界をめぐり、その活躍は在日としての誇りを増してくれるだろう。