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アンミカさん特別インタビュー
地球人としていろいろな文化や考え方を尊重しよう
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2021年9月17号 |
15歳でモデルとしての活動をスタートし、パリ・コレクションや NYコレクションなど様々なファッションイベントで活躍している
アン
ミカさん。テレビ番組にも多く出演し、歯切れの良い発言など で茶の間の人気も高いアン
ミカさんに、在日コリアンとして育って きた環境や、自身のアイデンティティ、そして今後の抱負などにつ いてお聞きした。
(聞き手・李相善本紙代表 撮影・李善諭)
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2021年6月27日
東京・テンカラット
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民族性と国際性のバランスをもち、 たくましく生きよう
李 アンニョンハシムニカ、お久しぶりです。アンさんとは2011年の弊紙主催イベント「第26回国民文化祭・京都2011『日韓友好 コリアンフェスティバル』でお会いして以来ですから約10年ぶりですね。当時、トークショーコーナーでは朴一大阪市立大学教授、白眞勲参院議員、在日コリアン・プロボクサーの徳山昌守選手とともに出演いただき、大盛況でした。私の顔は、覚えておられますか。
アン 勿論です。李さんには大阪時代、沢山のイベントや企画でお世話になりましたから。私も、久しぶりにお会いできて光栄です。
李 ありがとうございます。在日コリアン社会はいま、大きく言えば、日本人と同化して生きるべきだという考えと、民族的に誇りをもって生きるべきだという考えに、二分化されています。そのなかで、民族性と国際性のバランスを取りながら民族的にたくましく生きようというのが、コリアンワールドの長年の主張です。
アン そのバランスが本当に大事ですよね。そういうことをテーマにした講演会を、私も沢山やらせていただきました。
李 その狭間で、自己のアイデンティティに関して精神的に悩んでいる人はいまも多い。今日は芸能界で活躍されているアンさんに、そういった方たちに励ましや、また人種の垣根なく、多くの人々が明るく前向きになるようなメッセージをいただければ、と思っています。
幼少期の大けが コンプレックスを克服した母の教え
李 まず、アイデンティティ形成についてお聞きします。幼いころコンプレックスを克服した母の教えとは、どのようなものだったのでしょうか。
アン 5歳のとき、自宅の階段から誤って転げ落ちてしまい、口の中を大きく切ってしまう事故がありました。口周りは黒ずみ、ニコッと笑うと、口の中が大きくめくれ上がる後遺症が残りました。笑うと顔が痛くて、その痛みで表情まで歪んでしまうほどでした。普通、子どもがニッコリ笑うと、周りの人もつられて笑顔になったりするじゃないですか。でも、友達は私が笑うと逆に怖がったり、沈痛な面持ちをするようになって。それがショックで、どんどんコンプレックスが高まっていきました。うちは5人兄弟で、私は3月末生まれということもあり、保育所のなかでも小さいほうでした。成長が他の子より少し遅く、体もぽっちゃりしていました。そういった体形や顔のけがで思い悩んでいるときに、母から言われたのが「美人というのは、目鼻立ちがきれいな人だけじゃない。一緒にいて心地が良いな、気持ちが良いなと思える人が、本当の美人なのよ」という言葉でした。母は当時、化粧品会社で働いており、女性の美や接客、花嫁マナーの勉強などをしていました。それを私たちにも教えてくれるようになり、その教えが私のコンプレックス克服のきっかけとなりました。
李 素晴らしいお母様ですね。オモニ(お母さん)のお生まれはどちらですか。
アン 川崎で生まれ、幼いころに済州島に戻り、そのままずっといたそうです。時々、日本に来ていたという感じです。私が4歳のときにまた日本に来て、母は私が15歳のとき、亡くなりました。亡くなる前の2年間は病院で医療装置に繋がれ寝たきりだったので、ちゃんと喋ったのは8年ぐらいですね。父より日本語が上手だった記憶があります。父は、母が亡くなってから13年後に亡くなりました。
李 アボジ(お父さん)も済州島のご出身ですか。
アン はい、母と同じく済州島の摹瑟浦(モスルポ)というところです。私にとって、両親は偉大な教師のような存在で、本当に様々な教訓を学びました。母は私のコンプクレックスに寄り添いながら上手に導いてくれ、父は父で、出稼ぎが多く、私たちとはたまにしか会わないのに、兄弟1人ひとりの性格を的確に把握していました。父が出稼ぎから戻り、何年か皆で一緒に住んだ家族としての絆が最も濃かった時期に、私は家を勘当されて1人暮らしをしていたので、それほど沢山は一緒にいれませんでした。それから父が病気になり、兄弟皆で介護するようになったので。
社会の厳しさ、生きる術を教えてくれた父
李 アボジからの教えは、どのようなものがありましたか。
アン 小学校高学年のとき、兄たちと同じように「そろばんを習いたい」とお願いをしたことがありました。でも、お金がないからダメだと。「どうして私だけ、塾や習い事をさせてもらえないの」と、父に訴えました。父は「それならお兄ちゃん、お姉ちゃんに教えてもらいなさい」と言うのですが、兄たちも遊びたいし、なかなか教えてくれないんです。私が「たった2千円の月謝が払えないなんて」と言ったら、「2千円稼ぐのがどれだけ大変か、勉強しなさい」と叱られました。当時、兄が中学2年生で新聞配達をしており、父は私に「1カ月間、一度も休まずに兄の新聞配達についていけたら、そろばんを習わせてあげる」という条件を出しました。私は絶対にやると決めて、雨の日や雪の日もあったり、外は真っ暗で本当に辛かったですが、だんだんコツを掴んでいって、1カ月間やり遂げました。父は約束通りそろばんを習わせてくれました。そのときも「やるんだったらトップになりなさい」と言われていたので、努力をして、飛び級で段までいきました。モデルになりたいと伝えたときも、最初は反対されました。高校は大阪の進学校に通っていたのですが、父は大学に行ってほしかったんです。陸上をやっていて、推薦の話もあったのですが、怪我をしてしまい、もう長くはできないだろうということになって。それで自分をごまかさずに、ずっと夢だったモデルをやりたいと伝えたら、そろばんのときと同じで「本当にモデルをやりたいのなら、3つ条件がある」と言われました。その1つめの条件が、家を出ることでした。
李 中々厳しいですね。
アン はい。でも、父の厳しさにはいつも理由があって、不思議とその通りにすると間違いがないんです。家を出なさいというのも、獅子が我が子をあえて谷底へ突き落とすような愛情だったのだと、今ならわかります。また、妹や弟たちからすると、姉はたまにオーディションにいって、たまに合格しては、大きなお金を貰って帰って来る。毎日会社に行くわけでもなく、時々、綺麗な恰好をして家を出て、大金を稼いでくるような姿を見せるのは教育上良くない、というのもあったようです。社会に出てお金を稼ぐということに対して、妹や弟が間違った価値観をもってしまわないように。そして、モデルという特殊な仕事をするために、社会の荒波にもまれ、独り立ちして厳しさを感じながら仕事をしている姿を見せなければならないということから、家を出ていきました。
一流モデルと認められるまで、実家の敷居を跨げなかった
李 アボジの深い考えがあったのですね。2つめ、3つめの条件とは。
アン 2つめは「一流モデルと世の中に認められるまで、実家の敷居を跨がないこと」です。母の法事でさえ、帰ることは許されませんでした。3つめの条件が、新聞を毎日読み、社会がどこに向かっているか、時代を読んで、社会で役立てるような資格を取ることでした。ただし、資格を取得したときは、連絡をしてきて構わないと。一見すると厳しい条件かもしれませんが、これも親の愛情で、意味が2つあります。1つは、私が途中で心くじけたり、体に傷がついたりしてこの仕事ができなくなったとき、茫然として社会から取り残されてしまわないように、という理由です。常に新聞を読み、時代を読む。モデル以前に1人の社会人として常識をもち、そこで役立つ資格を持っていれば、いざというときに早く社会復帰ができるからと。もう1つはモデルのオーディションで「趣味は何ですか」と聞かれたときに、大体の子は「映画鑑賞です」「料理です」といったある意味で似通った返答をするんですね。それが悪いとは言いません。でも、そのときに「社会がいまここに向かっているので、そこに向けて自分はこう役に立ちたいから、この資格を取っています」と言えたら、自分に知的な付加価値をつけることができますよね。父が出した条件には、そういう意味合いも込められていました。いつも適材適所というか、父は子どもたち1人ひとりの個性にあわせた「愛ある厳しさ」を、必要なときに提案できる人でした。父と母という素晴らしいメンターが2人も家にいて、本当に良かったと思います。
現在21個目の資格取得に挑戦
李 素晴らしいご両親だったのですね。
アン ありがとうございます。実際、昔はモデル一本でやっている人が素晴らしいといわれる時代でしたが、今はマルチに活躍したり、意外な一面を持っていることが素晴らしいといわれる時代です。父の教え通り、時代に沿って、社会の役に立ち、自分の心がワクワクするような資格を沢山取得してきて良かったと思います。現在は20個の資格をもっていて、今、21個目を取得するため勉強をしています。こうして沢山のお仕事をさせていただいているのも、本当に父のアドバイスのおかげだと感じます。
一家団欒のピークに火事に
李 アンさんが済州島に初めて行かれたのはいつごろでしょうか。
アン これも、色々ありまして。当時、家が貧しいこともあって、父と母は民団の企画かなにかで、2年に1回ぐらい済州島に帰っていました。そのときにいつも、兄弟のうちの1人を一緒に済州島に連れて行ってくれました。当時、父はラーメン屋さんで働いており、経済的には最も良かったころでした。最初に兄が行って、2年後に姉が行き、次はいよいよ私だというときに、家が火事になってしまったのです。
李 それは、大変な苦労をされたことと思います。ラーメン屋というのは、お店を経営されていたということですか。
アン いえ、父は社員として就職していました。面接の際、「うちは大家族だから、住み込みにさせてくれないか」と頼み込んだら、お店の経営者の方が「私は平野の支店に住むから、ここの2階の6畳と4畳ある部屋のうち、6畳部屋を使っていいよ」と言ってくださって。それまで四畳半に7人で住んでいたところから、6畳部屋にランク・アップしました(笑)。そのうち、屋根裏部屋や4畳部屋も使わせてもらえるようになり、やっと生活が楽になったと安堵して1年もたたないうちに、火事になってしまいました。部屋を使わせてくれた経営者の方も、最後の方は父に事業を譲るといってくれて、「よし、これからだ!」と思っていた矢先だったので。当時、そのラーメン屋さんがすごく流行ったんです。ほんの2年か3年だったのですが、その間が人生で唯一、本当に人並の、普通の家庭のように育ったときでした。家族で、伊勢に旅行にも行けたりして。そんなことで、次こそ私も済州島に行けると思っていたときに火事になってしまい、結局、私と妹は韓国に行ったことが一度もないまま、大人になってしまいました。
両親の遺骨をもって2001年初めて訪れた済州島
李 大人になってからは、どのような経緯で済州島に行かれたのですか。
アン 両親が亡くなったあと、遺骨は教会に納骨していました。お墓を作らずに納骨堂に納めていたのですが、その方が両親に頻繁に会いにいけるので。週末のたびに教会に行っては、挨拶をしていました。韓国では両親の墓を別々に分けますが、そうすると母は、母方の許家に遺骨が戻されてしまう。それは可哀そうだからと、教会で父と一緒に納骨していたのですが、そのうち、父方の安家の墓に入れてあげようよ、ということになったのです。それで初めて、両親の遺骨をもって、兄弟全員で済州島に行ったのが日韓ワールドカップの前年でした。
李 というと、2001年ですね。当時はおいくつだったのですか。
アン 29歳でした。2001年の10月に、済州島の摹瑟浦に行きました。初めて済州島に行くので、皆でおしゃれをして行ったら、現地で墓守をしている親戚のおじさんが来て、いきなり「お前たち、なんて恰好をしているんだ。長靴を履け」と(笑)。それで長靴を履いて、全員、カマを持たされて。どうしてカマとハサミを持つんですかと聞いたら、これから山を刈って、草刈をして、土葬だからゴザを敷くんだと。通訳は親戚のおじさんがしてくれたのですが、正直、思っていた再会のイメージとは違って、ショックでした。だって、向こうからするとこちらは、久しぶりに会う日本のいとこ。私たちも、韓国にいる、私たちの両親を知る、いとこに会えるのだと。皆で歓迎してくれて、涙ながらにハグをするんだと思って、お土産もいっぱい持っていったんです。でも、出てくる言葉は墓守をするための、お金の話とかで。日本で裕福な暮らしをしていると思われていたり、先祖のことなどいろいろな話を聞かせてくれるかなと期待していたら、歓迎されている感じが全くなく、それがすごくショックでした。でも、これは親戚が悪いということではなくて、誤解もあったのです。そこで、「ああ、これは兄弟の誰かが自分たちの口で、ちゃんと韓国語で親戚と話をして誤解を解いて、両親のルーツを知らないといけないな」と思いました。
パリで芽生えた「コリアン・モデル」の自覚
アン パリコレ(パリ・コレクション)に出て、実家に戻るようになってからも、父からは「勉強を怠ってはいけない」「天狗になってはいけない」と、ずっと言われていました。20年前は「モデル30歳説」といって、モデルは30歳になったら仕事がなくなってしまう、という説がありました。結婚して生活感が出ると、もうモデルの仕事はできなくなると。当時、私も29歳で焦りだしていたときだったのですが、正直、うぬぼれていた部分がありました。モデルをしながらテレビに出ているのは、私しかいない。モデル事務所でも私がトップで、私以上に有名な人はいない。いつしか、「自分は唯一無二の存在で、こんなに忙しいのだから、父との約束の勉強をしなくてもいいだろう」と思うようになりました。私は日頃から、韓国人モデルであることを堂々と周囲に言っていましたが、パリコレでの経験が、私のアイデンティティ形成に大きな影響を与えました。パリでオーディションを受け、合格した際、現地の事務所にパスポートを提出したときのことです。私はフロム・ジャパンのモデルとしてオーディションに臨んだのですが、そのときに「あなたは日本人ではなく、コリアンじゃないか」と言われました。そこで自分の生い立ちなどを説明したのですが、「いや、あなたは韓国人の親からもらった骨と皮と遺伝子で仕事をしているのだから、これからはコリアン・モデルと名乗りなさい」と諭され、衝撃を受けました。そうか、両親のおかげでこの肌と髪も与えられ、高身長という素材を貰っているのに、どうして”住んでいる日本から来た”という理由でフロムジャパンモデルと言っていたのだろう、と。自分はコリアン・モデルなのだというはっきりとした自覚は、パリで芽生えました。それで日本に帰国したあと、それまで使用していた日本風のモデル名から、「ANN」という芸名に変えました。改名の理由を皆に聞かれましたが、「私は韓国人で、安(アン)という苗字だから『ANN』なんです」と説明し続けました。正直、それでなくなってしまった仕事もありました。当時はまだ、差別もありましたから。でも名前を言い続けていたから、私のことを覚えてくれていたクライアントさんもいました。
勉強を怠ったツケ、天狗だった自分に後悔
アン おかげで、2002年の日韓ワールドカップの前年には、すごく沢山のオーディションのお話がきました。「アンさんは以前から堂々と『私は韓国人だ』と言っていましたよね。日韓で役に立てるチャンスですよ」と、いろいろな方からお声がけいただいたのです。でも、それらのオーディションには、一本も合格することができませんでした。それは、韓国語を話すことがまったくできなかったから。天狗になり、忙しさを理由に、父との約束である韓国語の勉強を怠っていたツケが、ここできました。新聞もしっかりと読んで勉強していれば、「来年はワールドカップがあるから、韓国語の勉強をしておこう」と予習できたはずです。仕事のオファーをして下さった方々も、当然、私が韓国語を話すことができるものと思っていたんですね。勿論、すべて自分のせいではあるのですが、ショックでしたね。後悔しました。
一大決心し、リスク覚悟で2002年に韓国留学へ
アン そういうこともあって、両親のお墓を作りに韓国に行って、親戚とのコミュニケーションのためにも、誰かが韓国語を勉強しなければならないとなったときに、真っ先に手を上げました。ワールドカップのお仕事も、今からでも勉強すれば、間に合うかもしれないと。2001年末には韓国語留学の申請を出し、仕事の整理をして、2002年5月開催のワールドカップ前、3月には韓国に入りました。留学先は、延世大学の語学堂です。
李 大きな決断を、よくされましたね。
アン それまでの人生で、一番大きな決断でした。パリやニューヨークに行くチャレンジは、日本で一カ月間仕事をあけようが、「パリに行ってるんだ」「ニューヨークに行ってるらしい」という宣伝になりますから。
李 韓国には、どれぐらいいらっしゃったのですか。 アン 1年2カ月ぐらいです。
李 そこで、韓国語を猛勉強されたのですね。
アン はい。本当に大変でした。周りは、元々大学で韓国語を学んでいたり、朝鮮学校出身で、最初から韓国語はベラベラの状態で留学してきた人も多くて。そういう人たちは、朝鮮語訛りをソウル語に直したいとか、もっとブラッシュアップさせたいというのが、留学の理由でした。当時は韓流ブームの4年ほど前なので、日本から志をもって留学に行く人は、とても少ない時期でした。私が行った2年後ぐらいに韓流という言葉が生まれ、ヨン様が大好きで留学したりする人が増えましたが、私のときは女優の笛木優子さんが、二学年上でいらっしゃったぐらいで。日本から芸能人で留学している人は、ほとんどいませんでした。当時、クラスメイトは19歳から22歳ぐらいで、私は29歳だったので結構浮いていました。大阪ではキャリアがあったので、周りは私に敬語で話しかけてくれました。でも留学先では19歳の子に「ねえねえ、ミカりんって呼ぶね」といきなり言われ、驚きました(笑)。でもそのおかげで、自分は大阪では有名で、モデル業界では先輩かもしれないけど、ここではそんなことは関係ない。余計なプライドはいらないのだと気付くことができました。あのまま大阪にいたら、鼻が高くなって、裸の王様になっていたかもしれません。彼女たちは私の肩書に関係なく、「アン
ミカ」という一人の人間として私を見て、友達になってくれました。
留学経験は一生の宝物
人生で一番のターニングポイントに
アン 在日韓国人、本国の韓国人、米国やオーストラリアの僑胞、朝鮮民族の人など、本当に沢山の友達ができて、彼らは一生の友人です。今も当時の仲間と、メールを取り合っています。私は現在、韓国の化粧品をプロデュースし、QVCというショッピング専門チャンネルで販売しているのですが、そこの化粧品会社に、大学の同級生が何人かいるんです。だから、友人であると同時にビジネス・パートナーにもなっていたり、私がサイン会を開くと、皆で遊びに来てくれたりもします。今でも年に1回、同級生たちと定例会を開いています。皆、8歳ぐらい年下ですが、結婚して母親になっている子もいて。子供を抱っこさせてくれたり、一緒に遊んだり、自分ができなかった経験をさせてくれるんですね。一生の学びを得られる、ずっと大切な存在です。留学時代から、私の人生について語り合う日を沢山作ってくれたり、日本に帰ったらこうした方がいいとか、本当に親身になってくれて、「こんなに私のことを真剣に考えてくれるんだ」と、感動しました。それで私も、日本に帰っても韓国語をしっかり使って、留学で得た様々な経験や思いを語り継いでいかないといけない、と思ったのです。
李 韓国留学は、アンさんの人生にとって本当に大きな転機だったのですね。単なる語学学習ではなく、人生の視点、歩みを変えていく経験になったということですね。
アン はい、一番のターニングポイントでした。留学先の学校の先生からも「僑胞が、自分も誇りある韓国人であるというのならば、言葉や文化をもっと勉強し、私たちの国のことを沢山理解して、他の人たちに伝えていってほしい。そのときこそ、あなたたちを真の韓国人だと認めます」という、厳しさもあるエールをいただきました。それは私たちを奮起させるためでもあったのですが、韓国の人たちは皆、それぐらい誇りをもって、真剣に生きているのだということを学びました。
本音でぶつかる、韓国人の良さ
李 アンさんの考える、韓国人の良さとはどういったところでしょうか。
アン 本音でぶつかるところですね。韓国は一度、とりあえずその人と話し合ったりぶつかったりして、この人はこれぐらい言っても大丈夫だなとか、パンチ力じゃないですが、測るんですよね(笑)。そうやって、「ぶつかれる人」だという信頼感を得ることで、仲良くなれる。でも逆に日本の場合は、相手に迷惑をかけないように、痛みを与えないように、この人とはこの距離で、この位置で接しようとか、ぶつからないようにする配慮が素晴らしいと思います。両国の良さがあるのですね。韓国の友達と買い物に行って、どちらの服が似合うかと聞いたときでも、日本だと「どっちも似合うよ、好きな方にしたら」と、傷つけないような言い方をしてくれます。相手を立ててくれるんですね。それが韓国人だと、「どっちも違うと思う。他の服を試着した方がいい」とはっきり言う。私はどちらも好きです。
韓国・食文化の特徴 国として美容健康の意識高い
李 食文化については、いかがでしょうか。
アン 日本の「ご馳走様でした」という言葉の「馳走」とは、昔、大切な客人を迎える際、その準備のため馬を走らせて方々へ出向き、物品を調達していた「走り回る」様子が語源となっています。苦労して用意してくれた相手を思って、料理を残さないようにということから、少量ずつ出てきます。深い思いやりですね。一方、韓国の「ご馳走様でした」は、韓国語で「チャル モゴッスムニダ」、直訳すると「沢山食べました」ですよね。残してもいいから、お腹いっぱい食べてもらいたいというのがあって、「もう食べきれないぐらい、沢山いただきました」という意思表示が込められています。本当にお腹がいっぱいなのだと、ポジティブに伝えるような印象がありますね。また、韓国は薬食同源、医食同源で、「食育」が素晴らしいと感じます。
李 どのようなところが素晴らしいのでしょうか。
アン たとえば、パンチャン(キムチなど、ご飯と一緒に食べるおかず)がはじめに沢山出てくるところですね。今は世界中でベジタブル・ファースト、つまり食事の際、野菜を最初に食べましょうと提唱されていますよね。野菜を最初に食べることで、血糖値の急上昇を防ぐ効果があります。韓国は昔から自然とそのスタイルで、パンチャンがいっぱいあって、豆を取って、海藻類を食べて、ナムルを食べる。そもそもが、血糖値を上げない食事法なのです。私が子どものころに熱を出したときも、母は食事前に「今日はミカちゃんが少し熱があるから、体を冷やすためにキュウリや冬瓜を食べようね」と、理由や食材の効果を説明して食事を出してくれました。韓国の料理屋に行くと、どんなおしゃれな流行の店でも、これはこれにいい、という説明書きが置いてあるでしょう。そういう部分一つとっても、食育が行きわたっているなと感じます。周りの会話に耳を澄ますと、美容と健康の会話が多いのも特徴です。国がお金を出して、希少品の成分開発や、美容に良いものを作っているのです。美容健康が国に根付いているから、そういうところに国として力を入れられるのも、韓国の良さだと思います。
情に厚い韓国人
アン
韓国人の一番好きなところは、なんといっても情が厚いところです。留学から日本に帰国する際も、「日本に着いたらすぐに連絡してね」と言われ、「勿論」と答えたのですが、帰国後2週間連絡しなかったら「なんで連絡してこないの」と怒られましたから(笑)。私は日本に戻って、生活が落ち着くまで、3カ月ぐらい経ったら連絡しようと思っていました。でも、向こうは着いたらすぐ連絡が欲しいし、密であった友達とはずっと一生の友達だという、その心の温度感がとても近くて、温かくて。口先だけじゃないんです。初めて会った人とでも友達になって、いろいろ心配してくれたり、引っ越しをするといったら、次の日には手伝いをしに来てくれたりとか。普通は、数年間の友達じゃないと、中々そこまではしないじゃないですか。
和食の素晴らしさ、五感を使い繊細に 日本の「おもてなし力」は世界一
李 いいお話ですね。我々の共通点は、日本で生まれ育って、現在も日本にいることだと思います。私は和食、日本料理が大好きなのですが、日本の食文化についてはいかがですか。
アン 和食は、私も大好きです。日本料理の素晴らしいところは、繊細さです。例えば、器の温度一つにしても、熱さや冷たさに大きな幅があります。見た目も美しく、五感を使って楽しめ、すべてのお料理が一つひとつベストな状態でお出しできるよう、徹底されています。いろいろな意味で完璧を目指して、お客様に喜んでもらおうとする「おもてなし力」は、私は世界一だと思います。あとは配慮深さ。相手に迷惑をかけないように、嫌な思いをしないように、2周ぐらいまわって気遣いをしてくれる(笑)。そういうところも日本の良さですね。
李 そうですね。朝鮮半島と日本列島、地政学的見地からも、様々な比較ができて興味深いです。日本料理、韓国料理とくれば、中華料理もお好きなのですか。
アン 大好物です(笑)。祖父が元々、済州島で漢方の薬局を経営していたので、親しみがありました。中国も何度も訪れましたが、中国料理は味もさることながら、円卓で、皆で囲んで食べるのがまた素敵ですよね。
違いを知り、歩みよりを
アン 私は四天王寺ワッソの広報大使をさせていただいたこともあるのですが、1400年前にさかのぼると、たとえば鑑真が仏教を伝来させたりと、ただ伝えたいという一心で、命がけで日本に来てくれましたよね。逆に日本からは、田道間守(たじまもり)が聖徳太子の命を受け、済州島に「みかんの原種」とも言われる橘の実を取りに行ったりしました。ご承知のように、日中韓の間には、歴史上、様々な国際交流がありました。そういう歴史に思いをはせ、先人に敬意を払い、いろいろな国の違いを互いに知り、理解しあうことが大切です。違いに対して後ろ指を指し、あうだこうだと揉めるのはよくありません。お互いに伝え合ったことに敬意を払って、この料理おいしいね、こんな考え方もあるんだね、こんな歴史や文化があるんだねというふうに、楽しみながら理解を深めることができれば、私たちはもっと近づくことができるのではないでしょうか。
李 おっしゃる通りです。朝鮮半島と関りの深い、モンゴルは行かれたことはありますか。
アン まだ行ったことはありません。実は、夫と毎年、世界旅行に行く計画を立てていて、次はモンゴルとブータンに行く予定だったのです。それがコロナで行けなくなってしまったので、コロナ禍が治まったら、絶対に行きたいと思っています。
李 いいですね。モンゴルは騎馬民族の現地ですからね。
アン うちの安家が、さかのぼると李朝廷と関りがあって、シルクロードや中国など、大陸の教育を伝え守ってきたらしいのです。だからそういう意味でも、すごく興味がありますね。
李 アジア文明を確立し、大局的な歴史認識を アン 1人ひとりが「地球人」として互いに尊重しあえたら
李 そうだったのですね。これから東アジア全体がもっと仲良くしていくためには、ユーラシア文明とか、ヨーロッパ文明とは違った、いわゆるアジア文明というものが重要になってくると思います。日本、中国、韓国や北朝鮮も合わせて、もっと文化的な、社会的な良さを互いに見習い、良い部分は取り入れていく。より大局的な観点から、歴史認識を深めていくべきだと思うのです。
アン 私も、本当にそう思います。世界中、一人ひとりが「地球人」として、いろいろな文化や考え方を尊重しあうべきです。まずはこのアジアから、相互理解を深めていくことができればいいですね。
どんな国籍でも、私は私
李 現在の国籍は、韓国籍ですか。
アン はい、韓国籍のままです。両親からは亡くなる前、「これからずっと日本に住むのであれば、生きやすいのが一番だから、帰化したければしてもいい」と言われていました。チェサ(法事)も簡略化してもいいし、心のなかに韓国人である誇りを持っていれば、形にこだわることはないと。兄弟のなかには「安」の名前のまま、日本国籍を取得した者もいます。兄は行政書士をしており、そういった手続きを手伝ったりもしてくれました。私は米国人の夫と国際結婚したのですが、これまで国籍を変えようと思ったことは、とくにありませんでした。夫は、「ミカが韓国籍であっても日本国籍であっても、ミカがミカであることに変わりはない。ミカは日本で生まれ育ち、日本の文化を尊敬し、日本の素晴らしいところを沢山楽しみながら、同時に韓国の素晴らしい文化と風習も感じて生きてきた。それはとても良いことじゃないか」と言ってくれています。
李相善本紙代表 在日の後輩たちのためにレールづくりを
李 素晴らしいご主人ですね。アンさんには歴史的な使命というか、世界平和のための、素晴らしい役割があると思っています。そういう意味で、これからも大いに期待しています。私の孫もアンさんのファンで、今日はインタビューに行くと言ったら「羨ましい」と言っていました(笑)。最後に、在日同胞に対するメッセージをお願いします。
アン ありがとうございます。どんなお仕事に対しても、これからも笑顔で明るく元気に、表現していけたらと思っています。おこがましいかもしれませんが、後輩の在日韓国人の子たちが芸能界でより活躍しやすくなるよう、そのレールづくりも自分にかかっているのかな、と思います。勿論、芸能界の先人で、これまで沢山の在日韓国人の方々が活躍してくださったお陰で私もお仕事ができているので、私もその道というのを後輩たちに綺麗に開いていけたら、と思います。どの家庭もそれぞれ事情や個性があり、教育方針も異なるでしょう。そのなかで、韓国という共通の文化や歴史がバックボーンにあって、各家庭で料理や、両親の教えなどを通じて、様々なことを感じてこられた方が多いと思います。私たちのルーツである韓国文化に触れつつ、日本で暮らし、日本の素晴らしさも享受できる。両方の国の良さを知る者として、私はとてもラッキーだと思います。
李 飛鳥美人、来年はアンさんに アン お役に立てることはさせていただきたいと考えています
李 素晴らしいお考えです。実は来年秋頃に、飛鳥の石舞台で「飛鳥美人」という日韓友好祈念イベントを弊紙で開催する予定なのです。10年前は、女優の中野良子さんに飛鳥美人を務めていただきました。チマ・チョゴリを着てセレモニーを行うのですが、もし宜しければ、高松塚古墳発掘50周年記念もかねて、今回はアンさんに務めていただければと思っています。
アン 嬉しいです、ありがとうございます。高松塚古墳やキトラ古墳とも関わっておられる、考古学者の猪熊兼勝先生ともずっと、四天王寺ワッソの方も盛り上げてきましたので。お役に立つことがあれば、協力させていただきたいです。
李 ありがとうございます。私はアン
ミカさんを通して、来年は日韓、ひいてはアジアの人々に、勇気と希望を与えていきたいと思っているのです。
アン ありがとうございます、是非やらせてください。
李 勿論、お忙しいと思いますので、またご検討のほど、宜しくお願いいたします。改めて、本日は数々の貴重なお話をいただき、本当にありがとうございました。
アン こちらこそ、ありがとうございました。
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